「我ら、時」展覧会@大阪HEP HALLに行ってきました。
「東京の街が奏でる」のコンサート前に渋谷PARCOでの展覧会にも行ったのですが、
その時は時間がなく駆け足でほとんど音を聞かず写真だけを見てまわりました。
この後、私たちはきっと間違いなく美しいコンサートを観て、
大阪の街に、私の日常に戻ってから、この展覧会が東から北から西からやってくるのを
とてもとても楽しみに待っていました。
そして、いよいよ大阪の街にやってきた「我ら、時」展覧会。
まず、譜面台の説明を読み、いざ入口へ。
ごつん!
はい、いきなり壁にぶつかりました(笑)
あまりの暗闇っぷりに、まんまとだまされましたよね。
みなさん、進路は入念に確認を。
最初に、小沢くんのあの目が迎えてくれました。
あの写真、だいすき。
すべてを見透かされてるようでもあり、
なにも(そこにあるものは)見ていないようでもある、目。
この目で、世界を見てきたんだな。
強烈な色を放ちながら語りかけてくるような写真の前に向き合い、
小沢くんの話す声(イントネーションや言葉を区切るところまで、小沢くんそのもの)を
浴びる。
そう、浴びる、という表現が適切。
写される景色と語られる話は、さまざまでした。
場所を変え、時を超え、
降ってくる音をキャッチした途端に、そこに連れて行かれました。
さて。突然ですが、この後の文章は、私が「ひふみよ」の後に書いた日記の一部です。
曲の間にはさまれたモノローグについて。
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彼が今日まで辿ってきた道や考えをそっくりなぞることは難しいけれど、
そこを経て、彼がここに戻ってきてくれたことが、
なにものにも換え難い奇蹟だと思った。
そこを経て、今日演奏される「犬は吠えるがキャラバンは進む」や
「LIFE」やそれ以降の曲たちは、
ほんとうに奇蹟のように美しく響いた。
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あの時あんな風に感じていた「彼が今日まで辿ってきた道や考えをそっくりなぞること」は、
「東京の街が奏でる」の後、こんな風に私の目の前に届けられました。
(展覧会が始まった時期を考えると、「東京の街が奏でる」と同時だったけど、
私にとっては、ここ大阪の街でこの展覧会を見ることに意味があったので、
「東京の街が奏でる」の後。)
これは、まさに、「ひふみよ」から「東京の街が奏でる」までの「時」でした。
最後のふたつの写真を見て聞いた後に、気がつきました。
「我ら、時」
2010年の年明けに小沢くんがコンサートをすると聞いた時から、
オペラシティでの甘く美しい時間を経てそれぞれの日常に帰ってきたところまで。
それが、「我ら、時」なのですね。
小沢くん、あなたから受け取ったものを、ようやく理解することができました。
これで、おしまい。
ひとつ下の階でお迎えしてくれた狐さんにもお別れをして、
本当に終わりました。とさ。
おまけ:ラオス、小川が流れる。この写真が一番すき。
目を閉じると、いつでもまぶたの裏に現れる。小沢くんの声と一緒に。